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1日目(2025年8月6日)

仙台駅に集合後、バスに乗り込んで視察先に向かいます。 周囲の先生方は当然初めての方達ですが、お互いに満足な挨拶ができぬまま行き先に向かいます。
なぜ挨拶すらできないのか。 それは、企画代表者の武田さんが移動時間のほとんど全てで講話を行なっているからです。 超高密度の研修視察がスタートしました。

道の駅 大谷海岸
堤防を後ろへ引き、道路・背後地と一体で高くし、沖と浜を賢く整えて、砂浜を“残す・育てる”設計に切り替えた


映画「すずめの戸締まり」でこの道の駅大谷海岸が登場している。 展望台からは美しい大谷海岸の砂浜が一望できる。
途中休憩として、道の駅大谷海岸に立ち寄りました。 美しい砂浜を望む展望デッキもあり、とても心地よい場所です。 しかし「休憩」とはいえ、ここでも研修があります。
この場所には、当初、砂浜上に高い防潮堤を築く計画がありました。 ところが地元住民の反対を受け、計画は見直されることになりました。
砂浜を残すだけなら堤防を低くすればよさそうに思えますが、背後にはJR気仙沼線があり、話は単純ではありませんでした。
最終的にJR線は鉄路として復旧せずBRT化とし、背後の国道45号を活用して線路敷を不要化。その用地を防潮堤に充てることで、堤防を低く抑えることに成功しました。
道路・背後地と一体で高さを確保しつつ、沖と浜を賢く整えることで、砂浜を「残す・育てる」設計へと転換したのです。
今こうして美しい大谷海水浴場を眺められるのは、地元住民と行政のたゆまぬ努力の賜物です。

杉ノ下地区 東日本大震災慰霊碑
指定避難先の高台が津波にのまれ、住民93人が犠牲になった杉ノ下地区の語り部案内


最初の視察地は「杉ノ下遺族会」により、建立された慰霊碑です。 この場所は震災前の避難場所でした。 杉ノ下地区全体では、住民の約3分の1にあたる93名が犠牲になりました。 慰霊碑には子どもから高齢者までの計93名の名前と次の教訓が刻まれています。
『この悲劇を繰り返すな 大地が揺れたらすぐ逃げろ より遠くへ・・・より高台へ・・・』

震災前、慰霊碑が建つこの地点は比較的高台にあり、浸水想定区域に含まれていませんでした。 そのため市の指定避難場所となっており、過去の津波でもここまで水が到達したことがなかったため「ここなら安全だ」という安心感があったといいます。
<ポイント>
大切なことは「自助・共助、そして近所」→近所のコミュニケーションは防災に直結する
津波が来ているのに「まだ来ない」と戻ってはいけない→「自分は大丈夫(正常性バイアス)」という過信は危険
この地区の3分の1という多くの方が亡くなった場所は、市が指定した場所です。 地区の方は、そのような場所でも訴訟を起こさなかったと言います。 曰く「良かったか悪かったかはわからないが、住民の意思「自分たちが決めて、自分たちの判断なんだから、誰かのせいにするのは違う」」ということです。
語り部の方は、この活動をしている理由を「忘れないため」と言っていました。 私がこうして視察を振り返っている行為も「忘れないため」であることに今気がつきました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 (旧気仙沼向洋高校)
校舎4階まで津波に襲われ、遺構として保存された校舎と伝承館を視察

2階から3階に向かう階段に引っ掻き傷。津波流出物による衝突痕。 飴細工のように板金が転がっている。左側にあるのは体育館跡。
校舎と校舎の間は津波が左右から押し寄せて強い圧力の場となった。ここには乗用車が5台ある。 中庭部分。カイズカイブキは震災時から植えられているもの。津波が押し寄せた時、中庭は渦が生まれその影響で捻れたカイズカイブキとなっている。
<参考文献>
宮城県気仙沼向洋高校HPより「3.11の震災直後の動向」より内容抜粋
気仙沼向洋高校は大津波に襲われ、校舎は第2・第3波で4階相当まで浸水。 教職員はマスターキーで屋上開錠・退避して夜は新校舎4階で過ごした。 校外では寺→駅→階上中へとより高所へ二次避難し、生徒約170名は無事。 翌朝、引っかかった家の2人と実習棟の住民3人を合流し、流れ着いたボートで計51名が校舎から脱出した。
学校管理下にいた生徒約170名と教職員27名は全員無事に避難できており、学校としての避難は成功したと言える。 避難に成功した理由として、小野寺氏(当時の気仙沼向洋高校教諭)は
・校舎が海に近かった→海が近すぎて教職員、生徒ともに普段から危機意識が高かった
・校内にいた教職員が打ち合わせなしに生徒を避難させる者と書類関係を運ぶ者に分かれて行動できたこと
・ある程度のマニュアル保持とそれを超えた行動ができたこと。
・普段、指導要録や入試のデータを保存している場所を多くの教職員が把握していたこと。
・書類関係を3階ではなく4階に移動するよう管理職が指示したこと。
・情報部の多くの先生が校内に残り,サーバーの存在に気づいたこと。
・職員がマスターキーを持って避難したこと。
・4階を担当している職員が地震発生後,4階の全ての部屋の鍵を解錠したこと。
・3階のストーブは流されたが,たまたま4階にストーブが1台あったこと。(当日は雪が降る大変寒い夜であった。)
・大震災1年前にチリ地震があったこと。→1年前に津波を警戒して荷物を3階に移動したことがある。
と分析している。 とどのつまり、災害が自分ごととして捉えられていた学校であったということが重要だったのであろう。
この日語り部をしてくれた方は現、宮城県気仙沼向洋高校の学生さんでした。 それもこの日は4人もきてくれて、我々に当時の様子を教えてくれました。 彼らは震災当時のことはあまり覚えてないとは思いますが、語り部活動をする大人の姿をみて、ボランティアに参加しているということでした。 地域でそのような若者が育つ好循環を目の当たりにして、とても元気をもらえました。
そして、一泊目の宿「ホテルはまぎく」へ向かいました。

三陸花 ホテルはまぎく


今夜いただいたお酒。
1日目から相当ディープな視察となりました。 バスの移動中も、情報につぐ情報で、文字通り行き着く暇もありません。 結局周囲の方との挨拶もほぼできないまま、ホテルの夕食会場でようやく「はじめまして」となりました。
お酒を交えてお互いの出身地や立場を中心に交流。 皆さまざまな思いでこの研修に参加しているようでした。
自分は初めての応募でしたが、多くの人は何回も応募してやっと研修会への切符を手にした人だらけでした。 今回もキャンセル待ちが数多いるということで、相当に関心が高い研修であることを恥ずかしながら初めてしりました。

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