2日目(2025年8月7日)
研修二日目となりました。
行程表では釜石市鵜住居・いのちをつなぐ未来館・陸前高田・南三陸など、震災の被害が大きかった地区を巡ることになっていますが、都度停車してさまざまな場所を訪れます。
行程表では釜石市鵜住居・いのちをつなぐ未来館・陸前高田・南三陸など、震災の被害が大きかった地区を巡ることになっていますが、都度停車してさまざまな場所を訪れます。
浪板海岸
ホテルはまぎく前の海岸
返し波のない「片寄せ波」の海岸です。
震災以前は南北800mに白い砂浜が広がり、松林や青い海のコントラストが印象的な三陸を代表するマリンレジャーの海辺でしたが、東日本大震災による津波と50cmもの地盤沈下によって砂浜の大部分を消失してしまいました。美しい光景ですが、海辺には津波の爪痕が残っています。
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| 浪板(なみいた)海岸。 | 尾流雲が見られる。美しい光景。 |
大槌町役場旧庁舎跡地
町長含め33人の職員が犠牲となった

2011年3月11日、東日本大震災による津波が岩手県大槌町役場を直撃しました。
庁舎では町長を含む職員が庁舎前で会議の準備をしており、避難が遅れて多くが津波に巻き込まれ死亡しました。
行政機能の中枢は壊滅し、町長も行方不明となりました。
街の地域防災計画によると、庁舎が使用不可能となる場合はさらに高台にある中央公民館に本部を設置することとなっている。
しかし、庁舎が使用不可能とあんる装丁は職員の意識には薄かったようで、毎年3月に実施する町民との避難訓練で、中央国民館に本部を設置したのは数年前の1度きりだったという。
しかしながら、職員たちが地域の安全確保のために職責に努めたのは事実です。災害時の迅速な判断と避難の重要性を改めて示す出来事となりました。

釜石市鵜住居・いのちをつなぐ未来館
釜石東中生と鵜住居小生が率先して高台避難し、難を逃れた現場
防災センターに逃げて160人近くが犠牲になった現場
「いのちをつなぐ未来館」職員になった東中卒業生・川崎杏樹さんらの案内

岩手県釜石市鵜住居地区は津波により壊滅状態となった地域です。 学校管理下にあった鵜住居小、釜石東中の全児童生徒約570人は全員無事で、のちに「釜石の奇跡」と呼ばれるようになりました。
視察では、実際に避難行動をした「いのちをつなぐ未来館」職員の方と、当時の様子を教えてもらいながら避難路を歩きました。

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| ごさいしょの里の次に移動した介護福祉施設 | 釜石鵜住居復興スタジアムの記念碑 |
「日頃の挨拶も防災のうち」と教えていただき、防災は特別なことではなく、日ごろの何気ないコミュニケーションが大切なのだと感じました。

14時46分、地震発生
激しく長い地震が襲い、校庭では地割れが起こって水が噴き出した。 訓練では、地震が起きたら校庭での整列・点呼の後でございしょの里へ避難することになっていたが、中学生の多くは揺れが収まるとすぐにございしょの里へ走り出した。
800m離れたございしょの里の駐車場に中学生が到着。 訓練通りに整列・点呼を行い、登校していた全員の無事を確認した。 その後、小学生や地域住民が遅れて到着し、600人以上が集まっていた。 保護者が迎えに来た小学生は、ここで引き渡された。
→学校管理下より外れる。その後、このうちの1名が引き渡し後犠牲に
がけ崩れの危険や地域住民の助言をふまえ、高台の「やまざきデイサービス」へ向かうことを決断。 中学生が小学生の手を引き、ございしょの里を出発した。
地震発生から約30分、子どもたちが高台へ向かった数分後、鵜住居を津波が襲い、学校やございしょの里を呑み込んでいった。 やまざきデイサービスに到着した子どもたちは、そこからまちが津波に呑み込まれるのを目撃した。
津波から逃れるため。恋の峠を目指して長い坂を駆け上がった。 ギリギリの状況の中で、子どもたちは、
・車いすで避難していた人たちの車いすを押す
・鵜住居保育園のえんじの避難を手助けする
など、「助けられる人から助ける人へ」を実践した。
恋の峠にたどり着いた。そこから見下ろしたまちは、鵜住居からその先まで被災していた。 子どもたちの中には山に逃げた子もいたが、その子たちも恋の峠に集まり。 あたりが暗くなるころには、学校から恋の峠まで避難した子どもたち全員の無事が確認できた。
数時間を雪の降る恋の峠で過ごしたのちに、約9km先の避難所(旧釜石第一中学校体育館)を目指し、 6日目に開通した三陸自動車道を子どもたちは歩きだした。 途中、通りかかった大型車が小学生や女子中学生を荷台に乗せて避難所を往復してくれたなどの手助けもあり、夜遅くに避難所へたどり着くことができた。 その後は保護者が迎えに来たこどたちは避難所を離れることができたが、迎えが来ない子どもたちの保護者の安否を確認するため、教職員は自宅に帰らずに子どもたちに寄り添った。
以上が、「釜石の奇跡」と呼ばれる避難行動の全体像です。
この地域は、学校管理下にいた児童生徒のすべての命が守られた場所である一方、同時に「いのちをつなぐ未来館」は多くの命が失われた場所でもあります。激しく長い地震が襲い、校庭では地割れが起こって水が噴き出した。 訓練では、地震が起きたら校庭での整列・点呼の後でございしょの里へ避難することになっていたが、中学生の多くは揺れが収まるとすぐにございしょの里へ走り出した。
■ 証言|中学校副校長
校長が外出していたなかで、大きな揺れが来た。 校内放送をするために職員室のマイクスイッチを押したが反応しない。停電だった。 一番若い先生に「率先避難者になって走り出して!」と頼んだ。 グラウンドに整列しようとする生徒に「点呼はとらなくていい!ございしょの里へ走れ!」 と先生に伝えに行ってもらい、自分は校長室や職員室の鍵を閉めた。
ございしょの里到着校長が外出していたなかで、大きな揺れが来た。 校内放送をするために職員室のマイクスイッチを押したが反応しない。停電だった。 一番若い先生に「率先避難者になって走り出して!」と頼んだ。 グラウンドに整列しようとする生徒に「点呼はとらなくていい!ございしょの里へ走れ!」 と先生に伝えに行ってもらい、自分は校長室や職員室の鍵を閉めた。
800m離れたございしょの里の駐車場に中学生が到着。 訓練通りに整列・点呼を行い、登校していた全員の無事を確認した。 その後、小学生や地域住民が遅れて到着し、600人以上が集まっていた。 保護者が迎えに来た小学生は、ここで引き渡された。
→学校管理下より外れる。その後、このうちの1名が引き渡し後犠牲に
■ 証言|女子中学生
ずっとせっぱつまった気持ちが続いていた。 一緒に避難した小学生たちはずっと泣いていた。
■ 証言|中学校副校長
ございしょの里に到着したときは「もう津波からは逃げられた。子どもの命を守れた。助かった」と安心した。 そのあと、先に避難した先生から「裏山が崩れている」と報告を受けた。
避難再開 高台へずっとせっぱつまった気持ちが続いていた。 一緒に避難した小学生たちはずっと泣いていた。
■ 証言|中学校副校長
ございしょの里に到着したときは「もう津波からは逃げられた。子どもの命を守れた。助かった」と安心した。 そのあと、先に避難した先生から「裏山が崩れている」と報告を受けた。
がけ崩れの危険や地域住民の助言をふまえ、高台の「やまざきデイサービス」へ向かうことを決断。 中学生が小学生の手を引き、ございしょの里を出発した。
■ 証言|女子中学生
4年生くらいの男の子と手をつないで出発した。 途中で、ゴゴゴという音を聞いた。 男の子には「大丈夫だからね」と声をかけながら早足で歩いた。
■ 証言|中学校副校長
おばあさんの話が防災授業での「小石が落ちてくるのはがけ崩れの兆候」という内容とつながり、もっと高台の「やまざきデイサービス」への再避難を考えた。 若い先生を先に行かせ、地割れがないなど安全が確認できたので避難を決断した。 小学校の先生にも「一緒に行きましょう」と声をかけた。 中学生には「小学生と手をつなぎ、守って避難しなさい」と伝えた。
津波襲来4年生くらいの男の子と手をつないで出発した。 途中で、ゴゴゴという音を聞いた。 男の子には「大丈夫だからね」と声をかけながら早足で歩いた。
■ 証言|中学校副校長
おばあさんの話が防災授業での「小石が落ちてくるのはがけ崩れの兆候」という内容とつながり、もっと高台の「やまざきデイサービス」への再避難を考えた。 若い先生を先に行かせ、地割れがないなど安全が確認できたので避難を決断した。 小学校の先生にも「一緒に行きましょう」と声をかけた。 中学生には「小学生と手をつなぎ、守って避難しなさい」と伝えた。
地震発生から約30分、子どもたちが高台へ向かった数分後、鵜住居を津波が襲い、学校やございしょの里を呑み込んでいった。 やまざきデイサービスに到着した子どもたちは、そこからまちが津波に呑み込まれるのを目撃した。
■ 証言|中学校教諭
学校の方を見ると水しぶきの煙が上がっていた。 これはだめだ。逃げられない。間違いなく自分のところに来ると思った。 目の前にいた生徒たちに「逃げろ!」と叫んだ。
■ 証言|中学校副校長
避難の最後尾から津波を見た瞬間は何かわからず、津波だと気づいたときは恐怖感に襲われた。 数百メートル先の水しぶきが目の高さに迫って来るように見えた。 目の前で家がスローモーションで呑み込まれ、本当に不気味だった。
もっと上へ!学校の方を見ると水しぶきの煙が上がっていた。 これはだめだ。逃げられない。間違いなく自分のところに来ると思った。 目の前にいた生徒たちに「逃げろ!」と叫んだ。
■ 証言|中学校副校長
避難の最後尾から津波を見た瞬間は何かわからず、津波だと気づいたときは恐怖感に襲われた。 数百メートル先の水しぶきが目の高さに迫って来るように見えた。 目の前で家がスローモーションで呑み込まれ、本当に不気味だった。
津波から逃れるため。恋の峠を目指して長い坂を駆け上がった。 ギリギリの状況の中で、子どもたちは、
・車いすで避難していた人たちの車いすを押す
・鵜住居保育園のえんじの避難を手助けする
など、「助けられる人から助ける人へ」を実践した。
■ 証言|中学校副校長
生徒全員を助けられるとは思えなかった。 避難の最後尾から「自分の命は自分で守りなさい!止まらないで走りなさい!」と叫び続けた。 小学生の靴が脱げて落ちていたのを拾いながら走った。
恋の峠 まちを見おろす生徒全員を助けられるとは思えなかった。 避難の最後尾から「自分の命は自分で守りなさい!止まらないで走りなさい!」と叫び続けた。 小学生の靴が脱げて落ちていたのを拾いながら走った。
恋の峠にたどり着いた。そこから見下ろしたまちは、鵜住居からその先まで被災していた。 子どもたちの中には山に逃げた子もいたが、その子たちも恋の峠に集まり。 あたりが暗くなるころには、学校から恋の峠まで避難した子どもたち全員の無事が確認できた。
■ 証言|中学校教諭
峠のそばにある石材店に来た時、「津波はここまでは来ない」と分かった。 生徒に「もう大丈夫だから」と伝えたが、パニック状態で泣き叫んだりする子や 過呼吸になる子がいた。
そして避難所へ峠のそばにある石材店に来た時、「津波はここまでは来ない」と分かった。 生徒に「もう大丈夫だから」と伝えたが、パニック状態で泣き叫んだりする子や 過呼吸になる子がいた。
数時間を雪の降る恋の峠で過ごしたのちに、約9km先の避難所(旧釜石第一中学校体育館)を目指し、 6日目に開通した三陸自動車道を子どもたちは歩きだした。 途中、通りかかった大型車が小学生や女子中学生を荷台に乗せて避難所を往復してくれたなどの手助けもあり、夜遅くに避難所へたどり着くことができた。 その後は保護者が迎えに来たこどたちは避難所を離れることができたが、迎えが来ない子どもたちの保護者の安否を確認するため、教職員は自宅に帰らずに子どもたちに寄り添った。

釜石市では、全体で888人が犠牲となりました。そのうち627人が、この鵜住居地区で亡くなっています。 このため、釜石市の芳名板(「釜石祈りのパーク」)は鵜住居地区に設置されています。
ここには、かつて地区防災センター(2階建て)が建っていました。 この施設は2010年2月に完成し、名称に「防災」を冠していましたが、実際には福祉サービスや公民館機能を併せ持つ複合施設でした。国の防災関連予算を活用して整備されたため、「防災センター」と命名されたとされています。
地域の指定避難場所はこの防災センターではなく、高台の神社や寺でした。 しかし、地域の避難訓練では防災センターへ駆け込む想定が繰り返し行われていました。 皮肉にも、震災のちょうど一週間前にあたる2011年3月3日(昭和三陸津波の日)にも、防災センターへ避難する訓練が実施されています。
そして、3月11日。訓練どおり、多くの住民が防災センターへ避難しました。 この地域は11mの津波に襲われ、センターは2階まで浸水しました。
当時、館内にいたのは190人余とされていますが、正確な人数は特定されていません。 そのうち(確定値ではないものの)163人が犠牲になったとされています。 公共施設で100人を超える死者を出した事例は国内でも極めて稀で、この地が唯一ではないかとも言われます。
訓練どおりに避難して犠牲が出たことから、行政の責任を問う訴訟が2家族によって提起されました。 盛岡地裁の一審は、「被害の予見は困難であった」「避難訓練ではセンターに向かったが、実際の指定避難所は高台であると周知していた」として、原告の請求を棄却しました。
この判断を不服として、そのうちの1家族が仙台高裁に控訴しました。 高裁では判決には至らず、「勝ち負けではなく、この出来事を未来につなぐ形で」との裁判所の強い勧めにより、和解が成立しました。 賠償金は50万円弱。 和解条項には次の二点が盛り込まれました。
①この地で起きた出来事を正確に伝承すること。
②慰霊・追悼を適切に行い、反省を踏まえた取組を継続すること。
市はこの和解を受けて、慰霊碑の建立と、伝承施設である「命をつなぐ未来館」の整備を進めました。 施設内には、防災センターでの出来事を詳述した展示コーナーが設けられています。 公的な伝承施設が自らの責任について明確に説明している事例は稀であり、和解条項の趣旨を誠実に果たしていることを示しています。
陸前高田
岩手県最大の犠牲が出た被災地の被災、復興の現場を視察
国営祈念公園で伝承施設見学

しかし、陸前高田市は、高田松原津波復興祈念公園の整備の中で「気仙中学校」「ユースホステル」「旧・道の駅高田松原」「下宿定住促進住宅」「奇跡の一本松(モニュメントとして保存)」など複数の遺構を「公園の一体的な空間計画」として位置づけ、交付金と他財源を組み合わせて保存しました。
さらに、奇跡の一本松は市民募金によりモニュメント化して保存するなど、交付金枠外の資金調達も活用。 加えて、3.11伝承ロードの登録は数に上限がないため、複数の施設を伝承・学習の拠点として整備できました。 要するに、財源と事業設計の工夫により、同市では複数の震災遺構の保存が実現したのです。
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| 陸前高田ユースホステル | 植林された松 高田松原の景観が戻るのは何年後のことか |

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| 合掌 |
震災遺構 下宿定住促進住宅。 高田松原津波復興祈念公園が面している国道45号線沿いの東側にある5階建ての市営住宅。 津波の高さは14.5m。 |
見渡すかぎりの範囲が同時に被害に遭った現実のスケールに圧倒されました。 点ではなく面で失われた光景に、私は「広い」という語が無力になるのを感じました。
そこで湧き上がったのは、自然と合掌してしまうような虚無感と、自然の力の巨大さへの畏怖です。 人の営みの儚さを突きつけられ、言葉が追いつかない。 だからこそ、祈るという身体の動きだけが残りました。
一方で、復興は確かに進んでいます。 膨大な盛り土で地盤がかさ上げされ、道路や緑地が整然と整備されている。 盛り土の高さが視界の基準を変え、街のレイヤーが一段上がったようでした。 費用の多くが復興特別所得税などの特別財源で賄われたことを、ここで体感しました。 被災していない私たちの税が形となって還る——その実感は責任へと変わります。 記憶を伝え、備えを日常に組み込むことが、ここで授かった宿題だと感じました。
南三陸旧防災対策庁舎

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| 南三陸旧防災対策庁舎 | 震災遺構 下宿定住促進住宅。 |

私たちが立つこの高さは、震災前の地盤よりもかなり高く盛り土された標高だということがこの写真からもわかるであろう。 対岸の商店街一帯も同じレベルまで掘削・かさ上げされ、川は高い護岸で囲われた。 小さな流れの静かな川は姿を変え、景色は復興のための大工事を物語っている。
この庁舎を「見たくないから壊すべきだ」という思いと、「教訓を伝えるために残すべきだ」という思いは、長く揺れ動いた。 いったん解体が検討されたものの、宮城県が当面の保存を決定し、その後は町に移管された。 何のために残すのか——その問いを持ち続ける点で、広島の原爆ドームの議論を想起させる。
毎月10日、月命日の前夜には、見せ物ではなく追悼のためのライトアップが行われる。 発災から十四年を経て、職員を悼む慰霊碑も整えられた。 場所はこの「避難の丘」の上。 時間の重さとともに、ようやく形を得た祈りである。
南三陸町戸倉小学校
児童90人が高台に避難して無事だった小学校の判断と経路を当時の校長の案内で視察
当時の校長麻生川敦氏の案内と意見交換

当時の校長先生の案内で震災当日に至るまでの話や、職員間のコミュニケーションの話を伺いました。 まず、新校長として赴任した時、学校としての避難場所が裏山の高台であったということに違和感を覚えたそうです。 津波がすぐに到達する沿岸部地域の避難の基本は素早く高台に逃げること。 裏山まで逃げる時間が危ないのではないか、学校の屋上の方が早いのではないか、と当時の職員と大変議論を重ねていたそうです。 結論として双方を避難場所に決め、震災が起きた時に、校長が選択判断することにしました。 震災当日、高台に向かったようです。その経路を一緒にたどりました。
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| 戸倉公民館(旧:南三陸町立戸倉中学校) | 避難場所となった高台 |
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| 高台から眺めた景色 | 避難場所となっていた場所からさらに高い場所にある神社の鳥居 |

神社へ登る道は険しく、その途中にこの石碑がありました。 曰く、この場所まで津波がきたとのことです。 学校の屋上に避難していたら、津波に飲み込まれていたかもしれません。 津波の脅威と平時から職員同士で議論を重ねていたことが、児童91名の命を救う結果に繋がったのだと思います。
そして本日の宿「まなびの里 いりやど」へ
南三陸町の「まなびの里 いりやど」という宿泊施設に泊まりました。
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| 宿での夕食 | 従業員の方が最後の瞬間までお見送り |
震災遺構を各地で視察しました。
特に印象深かったのが陸前高田の堤防からみた景色です。
ただただ呆然と、大自然の脅威を痛感させられました。
どんなに怖かっただろう。どんなに無念だっただろう。
と想像することしかできませんでした。