3日目(2025年8月8日)
研修三日目となりました。
今日の主な視察地は大川小学校や門脇小学校などの学校被災地です。 特に大川小学校は三重県職員の防災研修でも話題にされた場所になります。
今日の主な視察地は大川小学校や門脇小学校などの学校被災地です。 特に大川小学校は三重県職員の防災研修でも話題にされた場所になります。
吉浜小学校跡地

まず最初に、吉浜小学校という学校があった跡地に立ち寄りました。 震災遺構として保存されている場所ではありません。 この学校近くの道路付近には大船渡市吉浜総合支所(旧役場)が建っていました。 そもそもこの地域は川のそばに位置しており、津波の危険がある場所でした。
当時、この地域における津波の想定高は「5.5メートル」でした。 そのため、敷地を6.5メートルまでかさ上げし、その上に2階建ての庁舎を建設。 さらに2階の多目的ホールを「避難所」として指定していたのです。 しかし、実際に襲った津波の高さは14メートル。 文字通り、想定をはるかに超える津波でした。
この場所にあるモニュメントの数字「13.8m」は、その時の津波の実測高さを示しています。 かさ上げして建てられた2階建ての役場も、ほぼ完全に水没してしまったのです。
地震発生から約35分後の午後3時20分。 津波が押し寄せ、庁舎にいた26人のうち、助かったのはわずか3人だけでした。 庁舎は避難所として指定されていたにもかかわらず、そこで多くの命が失われてしまいました。
吉浜小学校の児童は、当時すでに下校している時間帯でした。 児童49人のうち、7人が犠牲となりましたが、この7人の多くは、親とともに「役場に避難」し、津波にのまれたと考えられています。 明確な記録は残っていませんが、おそらく避難先で命を落としたということです。
一方、学校に残っていた教職員10人と児童5人は、屋上へ避難して全員助かりました。 3階建ての校舎の屋上に避難し、津波が3階の天井付近まで迫る中、必死に耐えたのです。
目と鼻の先にあった総合支所では、同じように「ここが安全」と信じて避難した人たちが犠牲となりました。 たった数十メートルの違いで、生死が分かれたということです。 助かった児童の一人は、庁舎内で津波にのまれながらも奇跡的に救助されました。
この事実をどう考えたらいいのでしょうか。 指定避難所に逃げた人が命を落とす。
それを、どう受け止めればいいのでしょうか。 この出来事は学校管理下での事故ではありませんが「指定された避難所が安全ではなかった」という現実は、教訓として語り継ぐ必要があると感じます。 想定を超える災害が起きたとき、避難行動そのものが命を左右する。 そして「公共施設だから安全」とは限らないのです。
吉浜総合支所は震災のわずか5年前に新築された建物でした。 最新の耐震・津波対策を施した“安全な公共施設”のはずでした。 それでも、想定を3倍近く上回る津波にのまれ、多くの人命が失われました。
川を挟んだ向こう側では、大川小学校の悲劇がありました。 北上川の北岸と南岸――どちらの地域も、同じように「想定外」に襲われました。 この吉浜小学校では、校舎に残った人々が助かった一方で「より安全なはず」と思って逃げた場所で命を落とした人がいました。
何が安全かを場所で決めるのではなく、その場その場で状況を見極め、判断する力を持つことが防災の本質ではないかと思いました。
釣石神社

吉浜小学校跡地から少し西に移動した地点に釣石神社という合格祈願で有名な神社があり、立ち寄りました。
石巻市大川小学校 児童74人と教員10人が犠牲になった現場を遺族で語り部活動をする元中学教員佐藤敏郎氏の案内

まず最初に伝えていたことは、この場所が悲劇の場所という語りではなく、あたりまえに「暮らし」と「笑い声」があったのだということを確認したことです。 訪れた時には周囲に人家は全くなく、ポツンと大川小学校があるというふうに見えましたが、震災前は140戸超の家々、郵便局や病院、商店が並び、子どもたちが走り回る街があったことを写真を交えながら教えてくれました。
佐藤さんは語り部の活動をする中、小中高生が最も反応するのは、瓦礫の写真ではなく、この事実だとおっしゃっていました。 かつての生活の写真に「命があったという事実」を自分事として捉え直す瞬間が生まれるからだと言います。
その後、遺構となった校舎の屋根に残る変色(=津波到達の痕跡)や海から約3.7km離れたこの地まで水面が屋根際に達したこと、記念教室に残る歪んだスピーカーや破れ壁から、津波の破壊力を切々と伝えます。
震災直後、この場所は取り壊しの議論もありましたが、卒業生・遺族・ボランティアの「残してほしい」という声が行政に届き、保存へと舵が切られたという経緯があります。 しかし、現時点(=2025.8.8)では解説板はありません。 この地で起きたことを「語り」で残すこと、その選択自体が「耳を澄ませ、想像力を働かせる」学びを要請していると感じます。
佐藤氏の語りの核は「防災には本番がある」という痛切な自省にあります。 停電やガラス落下を想定しない訓練を百回重ねても本番では役に立たない。 避難訓練は「勝ったり負けたり」「作戦を変えたり」できる“本気の練習”でなければいけません 予定調和の完璧さではなく、失敗と修正を内包した実戦性こそが命を守ると伝えていました。
各種の報道でもあるように、大川小における避難行動は津波到達の1分前でした。 しかも、向かった先は山ではなく、橋(=津波の来る方向)だった。
列の先頭にいたであろう娘を思いながら、氏は「悔しいのは逃げたことではなく“1分しか”逃げなかったこと」と繰り返しおっしゃっていました。 狭い通路を児童らは泣きながら生き延びようとし、その刹那津波が襲う。 そのような中で、現場の教師は「せめて抱きしめよう」と子どもを抱いたに違いない――氏はそう想像し、「登場人物に血を通わせる」ことが防災教育の出発点だと語っていたのが一番印象に残りました。
報道を「かわいそう」で終わらせず、「自分や家族が、津波がやがてやってくる列にいる」と想像することが防災。 しかし、防災の動機は「恐怖」では長続きしない。 だからこそ「希望のための防災」を掲げる。 助かって喜ぶために、みんなで未来を生きるために、何も起きていない“今日”のうちに本気で備える。 普通の子どもたちと普通の先生が過ごした「普通の毎日」を忘れず、日常の行間に潜むリスクに光を当てること。 この場所は、その学びを次世代へ手渡すために在り続けるべきであると語っていました。
教訓
第一:「自分事化」が防災の原動力である。家族や自分を登場人物として配置し、避難の列に自分がいると想像する。 その視点が意思決定を速くし、準備を現実化する。 語りや記録は、数字やハザードマップを血肉化する装置であり、教育の全領域に通底する。
第二:「本番前倒し」の訓練設計を徹底する。
停電・通信途絶・硝子落下・通路閉塞・フェンス越え・段差・逆走など、現実に起こりうる支障をわざと混ぜ、指示不能時間や誤案内を含むシナリオで練習する。 目的は完璧な統制ではなく、現場裁量と小隊分散の可動性を育てることである。
第三:「1分の壁」を越える初動原則を明文化する。
強い揺れ・長周期・複合災害のトリガーで自律避難を開始し、地形上流(高所)へ最短で向かう。 橋・川・海に向かう動線は原則禁止。 幼小混合では高学年が低学年を抱える・牽引するペアリング、教師は最後尾・要配慮者支援に回り、全員が「迷ったら上へ」を合言葉に動き切る。
第四:動線と環境の「物理的最適化」を日常から進める。
フェンスに非常解錠、段差解消の仮設スロープ、狭隘部の拡幅、山側ルートの草刈り・踏査、非常口の重複配置、雨天・積雪時の代替ルート整備など、行動を阻むボトルネックを先に潰す。
第五:集合統制より「分散完了」をKPIにする。
学級単位の分割避難、到達確認は地点QRや色旗・ホイッスルなど非電源手段で行う。 指揮官不在でも各班が逃げ切れるよう、役割と判断基準をカード化して配布し、児童にも委任する。
第六:記録と継承の「場」を確保する。
遺構や写真、語りを授業化し、地域史・地形・産業と重ねて学ぶ。 恐怖で縫い止めず、「助かって喜ぶ」物語へ編み直すことで参加が持続する。
最後に:今日の行いが明日の生死を分けると心得る。
防災は津波を止める技ではなく、「その日をどう迎えるか」という生活設計である。 迷えば上へ、早ければ広く、遅ければ個別に――この単純な原則を徹底し、教員・保護者・地域が同じ地図と合図で動ける共同体をつくること。 それが大川小の犠牲を無駄にしない最善の実践である。
道の駅おながわ 旧女川交番

<展示物より抜粋>
未曾有の大災害は、震災時の人口10014人の約8.3%に相当する827人の尊い生命を奪い去り、建造物総数6511棟のうち5565棟を破壊し、女川町に被災地最大の被災率となる壊滅的な被害をもたらした。 庁舎が津波で全壊した町役場職員は、行政機能が失われながらも行方不明者の捜素やご遺体の安置、避難所の運営などに奔走しなければならなかった。

旧門脇小学校 500人以上が犠牲になった南浜地区の小学校の避難を、当時の校長鈴木洋子氏の案内で視察

鈴木校長からの案内の内容を簡単にまとめたいと思います。
防災教育への思いと事前準備
門脇小学校が津波から多くの命を守ることができた背景には、日常から徹底して積み重ねてきた「防災教育」と「訓練」がありました。鈴木洋子元校長は、普段の学校生活そのものが「命を守る行動」につながるように指導してきたと語ります。
廊下を静かに歩くこと、荷物や道具をきちんと整理整頓すること、一つひとつの指示を簡潔に出し子どもたちが素早く動けるようにすること。
一見すると生活指導や授業づくりに見えるこれらの積み重ねが、非常時に混乱やけがを防ぎ、速やかな避難行動へとつながる「基盤」だと考えていました。
鈴木先生の防災への意識の原点には、1978年の宮城県沖地震の経験があります。
「30年から40年の間に再び大きな地震が来る」と言われ続けてきたことから、学校教育の場で「命を守ること」を常に意識し、妥協のない訓練と指導を続けてきました。
震災のわずか2日前、2011年3月9日には津波注意報が発表され、門脇小学校では全校で避難訓練を実施しました。
さらに翌10日の職員会議では、避難のあり方や指示の出し方、解除までの過ごし方を職員同士で確認し合いました。
この直前の訓練と話し合いが、11日の本番での冷静かつ迅速な判断・行動に直結したと振り返っています。
防災訓練は「決まりだからやるもの」ではなく、「子どもたちの命を守るためのもの」である――。
ときには子どもたちがふざけてしまう場面もありますが、大人が本気で取り組む姿勢を見せ続けることで、子どもたちの意識も変わっていくのだといいます。
地域と学校の連携・「避難の連鎖」
地震発生後、門脇小学校の児童たちは、これまでの訓練どおり、校舎裏の日和山の高台へと避難を開始しました。その姿を見た地域の人々や保護者は、「子どもたちが逃げたから、私たちも逃げた」と後に語っています。
子どもたちが率先して高台へ向かったことが合図となり、周囲の大人たちも後に続く「避難の連鎖」が生まれ、結果的に地域住民300人以上の命が救われました。
避難の流れは「子どもたち → 教職員 → 地域住民」と広がっていきました。
これは、率先して避難する人が周囲を導くという、防災の現場で重視されてきた考え方とも一致しています。
誰かが真っ先に逃げる姿を見せることで、「自分も逃げなければ」という判断が周囲に伝わり、集団としての避難行動が生まれたのです。
避難の途中で校庭にやって来た保護者や地域の人に対して、教職員は「子どもたちはすでに山に登りました」と情報を伝えました。
その一言が安心につながり、保護者や地域の人々も迷うことなく高台へ向かうことができました。
この経験は、「学校だけで完結する防災」ではなく、「地域と共にある防災」の重要性を示しています。
地域が学校を信頼し、学校も地域と情報を共有しながら行動したからこそ、より多くの命を守ることができたのです。
震災後に考えたこと ― 訓練と日常教育の一体性
震災後、鈴木先生は改めて「訓練を形だけのものにしてはいけない」と強く感じたといいます。宮城県沖地震以来、「必ずまた大きな地震が来る」と言われ続けてきた中で、
防災訓練は「本気で命を守るための時間」であり、形式的な行事にしてはならない――その思いを一層強くしました。
- 廊下を静かに移動すること
- 授業の道具をきちんと整理整頓すること
- 指示を聞き、素早く落ち着いて行動すること
非常時に慌てず、列を乱さず、高台へ避難できたのは、普段からの「規律ある生活」と「教師のわかりやすい指示」の積み重ねがあったからだということです。
震災の2日前に発表された津波注意報に伴う避難訓練では、マイクを使った指示の出し方、避難後の待機の仕方、訓練後の職員会議での振り返りなどを丁寧に行っていました。
その具体的な経験が、「本番」である3月11日の避難行動にそのまま生かされました。
鈴木先生が一貫して語るのは、「防災教育は特別な教育ではなく、日常の教育そのものだ」ということです。
普段の学校生活の中で身につける規律や判断力、教師と子どもたちの信頼関係、地域とのつながり――。
そのすべてが、いざという時に「命を守る行動」として立ち上がるのだと、門脇小学校の経験は私たちに教えてくれます。
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| 15時半過ぎ、海岸線に到達した津波が数分後に学校に達し、校舎は高さ約1.8mほどの津波に襲われた。 | 津波で流されてきた自動車や家屋が校舎に衝突し、車両などから出火して津波火災が発生。火の手は校舎の3階まで達し、校舎は炎に包まれる事態になった。 |
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| 津波火災によって木でできたもの(机の天板)は全て燃えている。 | 津波・火災の被害を受けていない教室もある。立ち入りはできないが、当時のまま保存されている。 |

そして最後の宿へ
最後の宿は、仙台市内にあるホテルに向かいます。 観光がほとんどないこの視察研修の中で「松島」に一瞬寄ることができました。
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| 仙台名物 牛タン | 七夕祭りの最終日だった |
明日で視察研修も最終日です。仙台市内の会議室で、避難所運営を行なった責任者の方の講話と研修の総括を行います。
その後、仙台空港へ向かうのですが、その道中でも「荒浜小学校」という震災遺構へ伺いします。
時間いっぱい余すところがない密度です。